モロッコ旅行記

この度私は、モロッコに観光旅行にいってまいりました。 その旅行の様子をできるだけ脚色を加えずに、またできるだけ 余すことなく伝えるとができるように、この旅行記を書いた つもりです。自分以外の人については、その人のプライベートに 関わることがあるといけないので、あまり詳細には書いて いませんが、今なお避けた方が良いと思われる表現が ありましたら連絡して下さい。


6月某日
今年度のハスラーズの海外合宿についての話題が持ち上がる。 海外旅行が初めての私は、イングランドを主張するが受け入れられず、とりあえずの候補地はスペインということになる。

7月某日
各人の院試の日程により、出発日が9月20日いこうということが決まる。 ここで、私は、9月20日は用事があるのでこの日を外してくれなければ行けないとの旨を伝える。

8月某日
2週間ほど今回の旅行の幹事と連絡をとらないでいたところ、出発日を9月21日にする変わりに目的地がモロッコに変更になったとの連絡を受ける。 一瞬言葉につまった後、抗議をすると、「20日に出発するか、モロッコにするかの2択だ。」と決断を迫られたので、仕方がなくモロッコ旅行の決定に従うことにする。 結局、今回モロッコへ旅立つのは、木村、田中(私)、田中(大田中)、本多、永野、小林の6人であった。


9月21日(日本)
午前7時50分。東京駅において待ち合わせをするが、肝心の木村君がこない。 彼が全員分の飛行機のチケットを持っているので、彼が来ないことには始まらない。 結局少しの遅刻の後到着する。 成田に到着後、チェックインの時間を待つが、なかなか始まらない。 しばらくすると木村君がやってきて、「飛行機が遅れているから、乗る飛行機がかわった。」という。 さすがアエロフロート。 しょっぱなからやってくれる。 結局30分遅れで飛行機は成田を飛び立った。 私は、海外も初めてなら飛行機に乗るのも初めてなので、実のところ飛行機の感覚とはどのようなものなのだろうと思っていたが、飛び立つ瞬間は、ちょうどジェットコースターに乗っているような感じだったような気がする。 モスクワまでの10時間あまりのフライトの間に、2度の機内食がでて、特においしいともまずいとも思わなかったが、この機内食が、どれほど素晴らしいものだったかを、モスクワで思い知ることになる。
9月21日(モスクワ)
成田を出発して10時間、モスクワに到着する。 この日はモスクワで1泊して、翌22日の12時にカサブランカに向けて出発する予定である。 モスクワで1泊といってもホテルに泊まるわけではなく、空港に宿泊するのである。 私は、この事態をかなり甘く見ていたため、後で大変な目にあう。 空港に到着後、トランジットオフィスに行くと、空港に宿泊する人のために、夕食と、朝食がでるという。 本日5回目の食事なので、どうしも食べたいというわけではなかったが、せっかく出るというので食べに行く。 しかしながら、この料理には、ほとほとがっかりさせられた。 サラダと黒パンと、スパゲティらしきもの。 ロシア人は、普段からこのようなものを食べているのだろうか。 この時ほど、日本食がおいしいと思ったことはない。 食事もそこそこに(私以外の人は、それでもすべて食べたようだが)、就寝の支度にはいる。 しかしながら私は、モスクワの夜をかなりなめていたようで、あまりの寒さに寝つくことができない。 さすがに、セーター1枚では防寒としては不十分で、あやうく体調を崩すところであった。 しかし、さすがに疲れていたのか何とか眠ることができる。
9月22日(モスクワ)
寝ついたといってもさすがに寒く、朝5時には目が醒めてしまう。 7時になれば朝食が出るが、昨日の食事を見る限りあまり期待はできない。 皆もそのうち目を覚ましたので、7時30分頃朝食を食べに行く。 食事自体はパンにウインナー、ヨーグルトと昨日よりも少しはましという程度だったが、冷えきった体に暖かい紅茶はこの上もない喜びだった。 朝食が済むと、出発までゴロゴロとしていて、出発の時間を待つ。 そして、飛行機は、異境の地モロッコへ向けて飛び立った。
9月22日(モロッコ)
現地時間で午後2時30分、飛行機は、カサブランカのムハンマド5世空港に到着する。 何事もなく入国審査をパスして、とりあえず両替を行なう。 100円が約7.2DH。 つまり、1DH約14円。 数千DHという大金を手にして、ちょっとした金持ちの気分である。 時間もあまりないので、本日の目的地、モロッコ第1の古都フェズに電車で向かう。 電車は、1等車、2等車とわかれていて、それぞれが個室。 1等車は乗っていないのでわからないが、2等車は8人用の個室で一応クーラーがついていた。 最初のうちは日本人5人で乗っていたのだが、次第に混んできて、途中からモロッコ人3人が乗ってくる。 始めの頃はモロッコ人たちだけで話しをしていたが、やはり日本人が気になるのか、その中で英語が話せる人がこちらに話しかけてくる。 私は、その時迫り来る眠気に絶えられず、少し会話に参加した後うとうとしてしまったのだが、ふと気がつくと、どうも話しが予想外の方向に進んでいた。 その話しを要約すると、話しかけてきた男は40歳で、今は休暇を利用して実家に帰るところだという。 そして、ちょうど明日は妹の結婚式なのでそのパーティーに招待しようというのである。 また、フェズの観光用に、安く政府公認のガイドを紹介してくれるというのである。 怪しい。 怪し過ぎる。 まず、単に同じ電車の同じ部屋になったというだけで結婚式のパーティーに招待するというのが信じられない。 これはモロッコでは普通のことなのだろうか。 また、妹の結婚式がちょうど明日あるというのも怪しい。 さらに、そのパーティを夜の8時から行なうというのも不安要素である。 にもかかわらず、皆このことに興奮していて行く気まんまんである。 私が、「いくらなんでも怪しすぎるんじゃないの。」というと、「まあ、何とかなるでしょ。」と言い出すしまつ。 これは、後で頭が冷えてからじっくり話し合った方がいいだろう。 また、ガイドの話しであるが、本来なら6人で300DH程かかるところを140DHで紹介してくれるという。 こちらは安いけどそれがまた怪しい。 結局フェズで一緒におりて、ホテルまでおくってもらってその日はその男とわかれた。

フェズでの1泊目は、さすがにモロッコ1日目ということで結構いいホテルに泊まることにする。 そして、このホテルで、我々に先だってヨーロッパから1人でモロッコ入りしていた大田中さんと合流する。 大田中さんに先ほどの話しをすると、予想通り「それは、怪しいよ」という返事が返ってくる。 結局この日は、明日の午前中のガイドの態度を見てから夜の対応を決めようということで決着がついた。


9月23日
モロッコ2日目。 アフリカといっても最北端の国の北の方の都市なので、それほど暑いということもなく、ちょうど良い機構である。 前日までのつかれのせいか寝起きは良くなく、結局朝食をとらずにガイドとの待ち会わせ場所に向かう。 昨日の男の話しでは、ガイドは女性という話しだったが、たっていたのは男性だった。 この時点で少し話しが違ったが、ガイド料は140DHでいいということを確認してガイドをしてもらうことにする。 モロッコの都市観光というと、主にすることは2つ。 一つは、モスクといわれるイスラム寺院を見て回ることである。 モスクには、有名なものから無名なものまでさまざまあり、その多くは、元神学校だったということである。 そして、もう一つはどこでもそうであるがお土産の買いものである。 モロッコの大きな都市には必ず、新市街と、メディナと呼ばれる旧市街があり、モロッコの昔ながらの文化が残っているのはメディナであるので、観光の対象もメディナの方である。 そして、メディナの品物には定価というものがないので、何をいくらで買うかということは買う人の腕前にかかっているのである。 ガイドに2、3箇所フェズのメディナをガイドしてもらった後、予想通りお土産やにつれて行かれた。 1軒目は金属細工の店で、銅や銀、金でできた皿や工芸品を売るところである。 皆買う気は毛頭なかったが、そのうちの一人がしつこく売り込まれて、結局根負けして皿を一つ買わされてしまう。 2軒目は絹織物の店で、ここで私は気にいったものがあったので、初の交渉に入る。 向うの提示した値段は3つで750DH。 さすがにこれは高いだろうと思い当然のことながら値下げにはいる。 しかし、この時まだ私はかなり甘かった。 日本の感覚で、600DHと言ってしまったのである。 向うの店員は、「お前は、商売がうまいな」と言いながら一発で商談は成立した。 この時は、ちょっと高かったかな程度の気持ちだったのだが、後々考えてみると、やっぱりむちゃくちゃ高い買いものであった。 この時小林君と話し合ったこととして、やはりこちらの価格は、向うの提示価格の10分の1から始めないといけないなとい言うことがあった。 そうすることによって、ようやく自分の希望価格で欲しいものが買えると言うのである。 先ほどの商品も、300DHあたりが適正価格と思われるので、75DHから始めるのも確かに正しいのかも知れないと思う。 始めての買いものから重要な教訓を学んだ後、3軒目は絨毯屋につれていかれる。 ここではさまざまな、 アラブ絨毯を見せられるが、いかんせん高過ぎる。 確かにきれいなもので、安ければ欲しいものもあったが、一番安いもので750DH。 良いと思ったものは数千DHだったので、交渉するまでもなく誰も買えない。 そして、午前中最後の店、着物の店につれていかれる。 ここでは、始めから買う気があった、ジュラバ、というイスラムの民族衣装を買う。 地球の歩き方に、100から200DH位と買いてあったので、その値段を一応の目安にして商談に臨む。 向うの言い値は450DH。 ちょっと高い。 他のものの値段を聞いたら300DHというので、僕が買おうとしているのは少しものがいいようだ。 当然言い値で買う気はなく、目標を200DHにおいて、120DHから交渉を開始する。 モロッコの商人は、このような値段から始めると、皆同じように「You are crazy!」という。 まあ、日本でこのような交渉をすればその通りかも知れないが、モロッコではこれが定石。 もしかしたらまだ高いかも知れないと思いつつ、こちらと向うの値段が段々つまっていく。 こちらの値段が200DHに到達した時、向うの値段はまだ300DHとかなりの開きがあり、どうやら交渉に少し失敗した感じがする。 結局、240DHで妥協してジュラバを買う。 日本円にしてみれば、たかが560円であるが、やはりなんとなく悔しい。 この後、ガイドとわかれて昼食をとり、午後からは自由行動の予定であったが、ガイドにしてみれば午後からもどこか自分の馴染みのところにつれていこうと思っていたようで、最後の昼食には、フェズのメディナの中では、おそらくかなり高いところにつれていかれてしまった。

午後はまず、レストランから、メディナの入口まで2人すつにわかれて競争をしようということになり、私はジャンケンで本多君とペアを組むことになる。 ここフェズのメディナは巨大迷路のようになっていて、1度や2度来たくらいでは到底覚えきれないような場所なので、無事出られるか不安であったが、見事トップでゴールすることができた。 その後、私と小林君、大田中さんはメディナでみつけたビリヤード嬢でビリヤードに興じ、ハスラーズの海外合宿としての役割を果たした。

ホテルに戻ると重大な問題が残っており、それは、今晩果たして結婚式のパーティに行くべきかということである。 ガイドが、政府公認とはいえ自分の馴染みの店につれていくのはモロッコでは当然なので、特に良い人とも悪い人とも言えず、結局、私と本多君は残ることにした。 ところが、私と本多君がひと足先にホテルを出て夕食を食べていると、向うの通りから見なれた顔が4つ歩いてくるではないか。 どうしたのかと聞くと、「30分くらい待っていたが、あのおやじ、やってこないんだ」とのこと。 結局、逆にすっぽかされたようで、残念というか、ほっとしたというか。 私見では、午前中にガイドともに店を回った時、我々があまりに金の使い方が渋いので、これはあまり金を持っていないのではとあの男が思った、というところだと思っている。 結局、特に何事もなく、この日も終る。


9月24日
午前6時。 朝早くから電車に揺られること1時間。 隣の町メクネスに到着する。 ここでは、マンスール門、キリスト教徒の地下牢、ムーレイ・イスマール廟などの観光名所を見る。 また、昔の学校も多分に洩れず、見学する。

昼食を食べた後、いよいよグランタクシーを捕まえて南方を目指す。 ここでグランタクシーと言うのは、都市間を結ぶタクシーで、運転手を入れて7人乗り。 特別大きいかと言うとそんなことはなく日本の普通のタクシーと同じサイズで、前に2人、後ろに4人乗るという日本ではとても考えられないものなのだが、このような状況で140km位のスピードで飛ばすものだから、モロッコの交通法はとてもおおらかなものである。 グランタクシーにしばらく揺られると人の住んでいる気配が全くなくなり、ひたすら目の前のアトラス山脈と地平線しか見えないような環境になってくる。 アトラス山脈を越えると、景色は今までのモロッコとは全く違った表情を見せるようになり、いよいよ砂漠が近くなった雰囲気である。 しばらく走っていると、前方から同じ会社のタクシーがやってくる。 運転手は車を止めて相手の運転手と何やら話しをする。 地球の歩き方に、グランタクシーに乗っていると車を変えることがあると書いてあったがまさにその通りで、向うからやってきたグランタクシーはこれから我々が向かうエルラシディアから来たグランタクシーで、もうすぐ日が暮れるので自分の家のある町に帰るためにお互いに客を入れ換えたようであった。 グランタクシーを乗り換えて2時間ほど走るとグランタクシーはエルラシディアの町に到着した。 日も暮れていたのでタクシーのドライバーにホテルにつれていってもらおうとしたところ、そのドラーバーが、「今夜はうちに泊まっていかないか」と言いだした。 ホテル代がまるまる浮くわけであるがちょっと不安である。 しかし、木村君などは大賛成のようで「Thank you,Thank you」と言っていて、特に誰も大反対はしなかったのでそのタクシードライバーの家に泊まることになる。 6人が泊まるわけだからどれほど大きい家なのかと思ったが、期待はみごとに裏切られ、ついたところはいかにも空き家というところ。 そこにこの男は勝手に毛布を持ち込んで、一人暮らしをしているようである。 その日は、6人が1部屋にメザシのようにならんで寝て、その男は友達の家に泊まると行って出ていった。 その時に、夜の間に誰が来ても絶対に戸を開けるな、ということと、翌日の7時に迎えに来ると言い残していった。 まあ、これらのことは、翌日また我々をタクシーに乗せて行けば、会社を通さずに稼ぎを得ることができるからであろうと思われる。 あまり寝心地が良いとは言えなかったが、疲れていたので程なく眠りについた。 まあ、モロッコに来た以上このような経験も良い経験かも知れない。


9月25日
モロッコに来て4日目。 体がだいぶ早寝早起きになれてきたようで、朝6時頃目が覚める。 タクシードライバーが来るまでの1時間あまりで、荷物の整理をし出発の準備をする。 午前7時。 ほぼ時間通りにその男はやってきて朝食を食べに行く。 そこで朝食をとりながら今日の予定について話しをするのだが、どうも昨日と話しが違う。 要約すると、昨日の時点ではエルフードを通ってメルズーカまで一人50DHでいいと言っていたのに、今日なら自分で行かずに友達に頼まないと行けないので一人75DH出せと言うのである。 友達に頼むから高くなるというのは何ともおかしな話しで、おそらく差額の25DHは紹介料として自分の懐に入るのだろうな、と思いつつその料金で交渉が成立する。 そして早速砂漠の村メルズーカに向けて出発する。

エルラシディアを出発すること1時間。 砂漠の入口の町エルフードに到着する。 砂漠に行くと水の値段も上がるだろうということで、この町でミネラルウォーターを買い貯めていく。 本多君がターバンを買ってきて頭に巻いている。 まあ、砂漠で買えばいいと思っていたが、それは少し考えが甘かった。

エルフードからメルズーカに向けてグランタクシーを走らせること15分。 突然舗装道路がなくなり、ここから2時間あまりの道なき道の走行が始まる。 この道なき道というのは、いわば岩砂漠といったところで、過去に通った車のタイヤの後を頼りに進んでいくところである。 走り初めてしばらくすると、このような砂漠にはタクシーではなく4WDで来るべきだったという話しになるがもう後のまつりであった。 狭い斜体の中で、暑い日差しと砂煙に耐えること2時間弱。 ようやくメルズーカの村に到着する。 どこかホテルにつれていって欲しいとドライバーに言うと、絨毯屋の前に車を止められた。 どういうことかと聞くと、その絨毯屋の経営者の弟がホテルを経営しておりそのホテルが開くのは12時からだから、それまでお茶でも飲んでいけと言うのである。 お茶を飲んだ後は、絨毯を出されて交渉になることは明らかであったが、特に断る理由もなくついていく。 始めのうちは、以前にここに訪れた客の写真や寄書きなどを見せながら話しをしていたが、一通りお茶を飲み終ると絨毯を持ち出していよいが交渉が始まった。 我々のうち一人が犠牲になってその男の話しを聞いている間に、残りの人はターバンはどうだと持ちかけられる。 元々買う気があったものなので結構真剣に選んだが、値段を聞いて驚く。 何と、本多君が買った値段の倍以上である。 高いと言うと、品質が違うから当然だと言って向うも引かない。 こちらがみんなで買うから負けろと言っても一文たりとも負けないと言う。 結局、砂漠では何か被るものがないと辛いだろうということで向うの言い値で買うことになった。 どうやら、砂漠では、向うはかなり強気に出てくるようだった。 絨毯の方も結局一人が買わされることによって解放され、ホテルに向かうことになった。

メルズーカに来た目的と言うのは砂漠ツアーに行くことである。 砂漠ツアーと言うのは、基本的に砂漠に泊まるタイプと泊まらないタイプがあり、我々は始めから泊まることを目的に来たのである。 ホテルにつくと、荷物起き場用の部屋を割り当てられてから砂漠ツアーの交渉に入った。 向うの言い値は一人450DH。 地球の歩き方によれば200〜300DHと言うことだったのでちょっと高いという印象である。 しかしここでも、我々に交通手段がないという弱みによって足元を見られ、結局この値段で承諾することになった。 出発は午後5時。 予定としては、砂漠で夕日が沈むのを見てから夕食をとり、満天の星空のもと砂漠に一泊し、翌日朝日を見て帰ってくるというものである。 出発までの時間は、しばし昼寝などをして鋭気を蓄える。

5時になると、砂漠ツアーの出発の準備も整い、いよいよ出発することになる。 当然のことながら交通手段はラクダ。 ラクダどころか馬にすら乗ったことのない私は、期待と不安でいっぱいの気持ちである。 ラクダは立ち上がる時かなり揺れるので降り落されそうになるが何とか堪える。 しかし、本当に辛いのは歩き始めてから20分くらい立ってからであった。 股はすれ、腰はいたくなり、降り落されないように支え棒を握っている腕まで痛くなる。 この時は、もう二度とラクダになんか乗りたくないと思ったものだが、ラクダは馬のように立ち上がる危険がないことが段々わかってくると、楽な乗り方も段々わかってきて、何とか一人前に乗れるようになる。 そうこうしているうちに日も沈み、宿泊地に到着する。 我々はもう疲れきっていてあまり何もしたくない状態であったが、ガイドの人たちがせっせと夕食の準備をしてくれる。 だた、その夕食というのは、モロッコ特有の硬いパンと、モロッコの民族料理でそろそろ食べ飽きてきたタジンという料理だったので、私はあまり食べなかった。 他の人も疲れなどから体調が優れないようで、皆あまり食べなかった。 夜は、砂漠に毛布をひいて夜空を見ながら眠ったのだが、あまりの寒さに私は頭から毛布を被り、とても夜空を楽しむ余裕などなかった。 あの寒さは、風があった分モスクワ以上だったように思われる。


9月26日
朝は5時頃目が覚める。 相変わらず風が強く、まだまだ寒い。 しばらくボーッとしていると、大田中さん以外の人は目を覚まして起きてくる。 木村君の提案で、私と小林君の3人は近くの大きな砂丘の頂上目指して登ることにした。 砂丘の下にいた時は、まだ日が登っていないようだったのであるが、砂丘に登っている途中で、日の出を見逃したことがわかり、ちょっとがっかりであった。 砂丘の4分の1ほど登ったところですでに息が切れ、体力不足を認識しながら私と木村君は登頂を断念する。 小林君だけが元気に登っていったが、結局2分の1くらいのところで断念したのが分かった。 パンとミントティーの朝食をすませ、ラクダに乗ってホテルに戻る。 この時間になると日も高くなり長袖では厚いくらいの気温になる。 また、ラクダの乗り方にも大部慣れ、これならまた乗ってもいいかなという感じであった。 ラクダに揺られること2時間。 ホテルに戻ると少し休憩してからエルフードの町に戻ることになった。 絨毯屋の旦那がグランタクシーよりも小さい車で送ってくれるというのだが、値段が高い。 先日は、エルラシディアからエルフードを通ってメルズーカまで1人75DHだったのに、今度はさらにひどい環境でエルフードまで1人75DH。 こちらに、交通手段がないことをいいことに、完全に足元を見られた感じであるが、本当に交通手段がないのでしょうがなく承諾する。 かなりきつい状況で20分くらい走ったところ、後ろからもう1台空のタクシーが追い付いてきて、2手に分かれることになる。 さすがに4人になると快適で、このまま1時間ちょっとでエルフードに到着する。

エルフードに到着すると、絨毯屋の旦那は、早速次の町へのタクシーを手配してくれたのだが、紹介された値段なのでむちゃくちゃ高い。 さすがにこの町ならば、自力で交通手段を手に入れることが出来るので、値下げの交渉に入る。 この時、初めて私が直接交渉をしたわけであるが、さすがに英語で交渉するのは大変で、とりあえず1人150DHから100DHまで値段を下げて皆の意見を待つ。 本来ならもう少し下げるべきだったかも知れないが、皆の意見が、まあこれでいいよ、ということだったのでこの値段で次の町ティネリールに向かうことになった。 また、大田中さんはひと足先に日本に帰るということなのでここでお別れであった。

エルフードからティネリールまでは2時間あまりということであったが、30分位走ったところで川の水が溢れて大きな水溜りになっているところにさしかかった。 それほどの深さがあったわけではないが、なにしろこのタクシー、車体が低い。 前方には無理に渡ってエンストしている車が一台止まっていたので、運転手が弱気になってしまっている。 まあ確かにここでエンストされても困るのだが、モロッコには迂回路などというものは存在しないので(都市間を結ぶ道路は1本しかない)、いくしかない。 後ろからバスと乗用車が来て、車体の高いバスがなんなく渡り、続いて乗用車も何とか渡ったので運転手も心を決めたようで、我々5人は歩いて渡り、軽くなった車体で水溜りを渡った。 この水溜りは何とか渡り切ったわけであるが、これが原因か、この後車の調子が悪くなり、結局3時間半ほどかけてティネリールに到着した。

ティネリールに到着すると、私と本多君は、残りの3人と別行動をすることになる。 というのは、大学の授業の関係上先に日本に帰るためであるが、なにしろカサブランカ−モスクワ間は1週間に1便しかないため、アエロフロートでモロッコにいく人は、皆1週間単位の旅行になってしまうのである。 我々2人は、このまま夜行バスで次の目的地、モロッコ第2の古都マラケシュに向かうつもりであったが、目的のバスが、すでに売り切れていたためティネリールで1泊することになってしまった。 それならば、分かれた人たちと合流すれば良かったのであるが、すぐにガイドに捕まりホテルを紹介される。 どのようなホテルを紹介されるのかと身構えていると、その男は地球の歩き方を見せてくれと言ってきて、今から紹介するホテルはこのホテルだと指さして言う。 高いホテルを紹介されるかと思いきや、結構安いホテルを紹介するので、合流することをあきらめてそのホテルに1泊することにした。

ホテルのチェックインをすませると、ホテルのオーナーがこの町をガイドさせてくれと言ってくる。 ガイド料はいらないし、20分くらいで終ると言う。 今までの経験から、20分で終ると言うことは絶対になく、ガイド料をとらないと言うことは、代わりにお土産やを梯子させられるということを意味するので断ったのであるが、あまりにしつこいので渋々つき合うことになってしまった。 ホテルのオーナーは、2代目のボンボンらしく、そのホテルは父親のものだったらしく、自分はまだホテルの経営を勉強中だと言う。 しかしながら、アラビア語、フランス語の他に、英語、スペイン語、ベルベル語を話し、今また日本語を勉強しているので、なかなかのインテリのようであった。 オーナーに始めにつれていかれたところは自分の家で、くつろいでミントティーでも飲んでいけと言う。 あまり気を許さずに、それでも勧められるままにミントティーを飲んでいると、妹の旦那という人がやってきて、私の妻が織った絨毯を見てみないかと言ってくる。 しかしながらその時は、相手が何と言ったか分からないまま、ついイエスと言ってしまい(一番やってはいけないことなのだが)、さまざまな大きさの絨毯を持ってこられてしまう。 絨毯を買う気などさらさらなかったので、この時点で自分の過ちに気づいたが時すでに遅く、すぐさま商談に入ってしまった。 大きな絨毯は元から買える値段ではなく、向うもそれは承知しているようですぐに引き下がったのであるが、小さな絨毯は何としてでも売ろうとしているようでなかなか引き下がらない。 向こうが最初に提示してきた値段は400DH。 それに対してこちらが提示した金額は40DH。 買う気はなかったが、自分のミスで交渉に入ってしまった以上買わないと向うも引き下がらないし、本多君にも迷惑をかけると思い、出来るだけ安く交渉を成立させるために頑張ることにした。 40DHといった時には、決まり文句のように「You are crazy!」と言われたが気にせず、「This is my price.Write your price.」というように、次々と交渉が続いていく。 こちらとしては、100DHに抑えたかったので、ジワリジワリと値段をあげていくのであるが、60DHあげる間に300DH下げさせるのはさすがに難しく、こちらが100DHといって、「This is my last price!」といった時には、向うの言い値はまだ180DHであった。 100DHまで下がらなければ買わないつもりであったが、旅先のせいか意志が弱く、「This is the middle price.」といって140DHを示されると、ついにその値段で買ってしまった。 結局この後香辛料の店、ジュラバの店、音楽テープの店につれていかれ、何らかのものを買わされた後、スパゲッティを食べにいくことになった。 久しぶりに、モロッコ料理でないものを食べられると思ってついていくと、何とその店には先ほど分かれた3人がいるではないか。 彼らはどうやら、この町で1、2を争う高級ホテルに泊まるらしく、かなり素晴らしい部屋を見せてもらう。 夕食後、オーナーと木村君、本多君の4人で別の土産物屋にいったのだが、この店は他の店とはひと味違った雰囲気であった。 というのは、誰もしっかりとした英語が話せないせいもあったのだが、しつこく品物を勧めてくることもなく、また値段が安いのである。 フェズや、メクネスなどの土産物屋の始めの言い値の3分の1位の値段である。 これがティネリールのやり方かも知れなかったが、今までに比べると値切らなくてもいいような値段だったので、向うの言い値でいくつかお土産を買ってしまう。 まあ、値切る労力を使わなかっただけよしとしよう。 結局この日はこのままホテルに戻って寝ることになった。


9月27日
早寝早起きの習慣が完全に身についたらしく、6時頃目が覚める。 本日は、9時間ほどの長距離バスに揺られてマラケシュに行く予定である。 軽く朝食をとった後、国営バス乗り場に行ってチケットを買う。 出発は8時30分とのことで、しばし時間をつぶす。 そうこうしているうちに、木村君と永野君がやってくる。 彼らは、この町にもう1泊して後1週間でゆっくりとモロッコを回るそうである。 軽くコーラを飲んで(この時点でもうミントティーには飽きていたし、それ以外のものといったらコーラとファンタオレンジ、カフェオレしかないのである)いると、荷物の積み込みと乗り込みが始まったので、我々は荷物をすべて車内持ち込みにして席を確保する。 そして、バスはマラケシュに向けて出発した。

ワルサザードという町まで、ほぼ4時間の道のりの間は、周りが岩砂漠といった感じであまり変わり映えのしない景色であったが、ワルサザードを過ぎて再びアトラス越えにかかると、雄大な山脈がさまざまな景色を見せながら移り変わっていく姿は素晴らしいものであった。

予想よりも少し早く、午後4時頃マラケシュに到着する。 早速ホテルを決めて、マラケシュの観光に行く。 といっても、もうここでモスクを見学する気はなく、メディナにお土産を買いにいくだけである。 私は、この日はウインドウショッピングをして、実際に買いものをするのは翌日にしようと思っていたので何も買わなかったが、本多君は買いたいものがあったらしく、この日は彼の買いものにつき合うことにした。 まず、始めに入った店は、結構日本語を話せる主がいる店で、いかにも偽アンティークショップというような店であった。 結局本多君は、店の主が始めに言った値段の5分の1の値段でお土産を買ったが、それでも店の主は結構すんなりと売ってくれたので、ここではフェズと同じように、10分の1くらいの値段から交渉をしないといけないと痛感させられた。 その後2、3軒回った後、本日の観光を終了にしてホテルに戻ることにした。 今晩は、特に出かけることもなく、夕食をとって、このまま休むことにした。


9月28日
朝、ホテルで朝食をとった後、アエロフロートにリコンファームをする。 すでに72時間前を過ぎていたが、簡単にすべきことは終る。 2日前に電話をした時にはつながらなかったのでおかしいと思っていたら、市街局番を押していなかったと言うミスを侵していたようであった。 どうやら、モロッコをかなり侮っていたようである。 少し反省。 その後、予定通りメディナの観光にいく。 始めの1時間くらいはメディナ全体を見て回ろうと思っていたので、わざと地図を見ずに適当に歩いていると、迷子になってしまう。 太陽の位置を考えながら歩くが、いつの間にか歩いている方向が狂ってしまい、1時間の予定が2時間くらいさまよってしまった。 自分の位置を確認した後、お目当てのものを探して歩いたが、時間切れで結局見つからず、仕方なく他のものを買って帰ることにする。 この時、ラクダの皮で出来た財布を買ったのであるが、ラクダの皮と言うのは、火であぶっても全然燃えないという性質があるらしく少し驚いた。 しかしそれ以上に、ラクダという言葉を聞くと皆揃って。「ラクダは楽だ」という駄洒落をいうので、日本人はこんな日本語ばかり教えて帰っていくのかということに驚いた。

マラケシュの観光を午前中で済ませて午後からは最終目的地カサブランカに向かう。 モロッコの電車というのは、大都市間を結ぶものでさえ1日に数本しかないのでかなり余裕を持って駅に向かう。 予定通りの電車に揺られること4時間。 カサブランカに到着する。 予定していたホテルが一杯だったので、第2候補のホテルを探すがなかなか見つからない。 そうこうしているうちに、ガイドに捕まってしまいそのガイドにホテルまでつれていってもらう。 そのガイドは、「ガイド料はいらない。親切でやっているだけだ。」というが、経験上向うから話しかけて来る人に親切でやってくれる人はいないので断るが、断り切れず行動を共にすることにする。 とりあえず、行きたいところがあったのでそこにちゃんと連れていってくれるか試してみたら、ちゃんと連れていってくれるので後で何を請求されるか不安になる。 不安はやはり的中して、最後にその男の馴染みの高い店で夕食を食べて、その男の代金まで払わされ、挙げ句の果てに帰りのタクシー代まで払ってくれといってくる有り様。 始めからある程度予想していたことなので、始めに断り切れなかったのが敗因と割り切って払ってやる。 その後ホテルに戻って素直に寝ることにする。 こうしてモロッコ最後の夜が更けていった。


9月29日
朝、7時頃目が覚める。 7時30分から朝食を食べるという約束をしていたが、どうもお腹の調子が良くない。 結局朝食をとるのはやめて、本多君には一人で食べにいってもらう。 モロッコ最後の日の予定として、私はカサブランカ唯一の見所であるハッサン2世大モスクを見に行く。 ホテルから歩いて40分。 散歩としてはちょうど良い時間である。 午前中は、9時、10時、11時と三回拝館時間があるが、飛行機の時間を考えて9時の拝館時間に間に合うように行く。 9時少し前にモスクに到着するが、そこは今までのモスクとは全く違った華やかさがあり、今世紀最大の芸術品といわれる内装が目に浮かぶようであった。 9時になると入場出来るようになり、100DHという今までになく高い拝館料を払って入場する。 どうやら学生なら50DHで入れるらしいのだが、国際学生証が必要だといわれ、「I am really student.」と食い下がったが「No.」と言われ、仕方なく100DH払うことにした。 中にはいると、英語、仏語、独語、などで中のガイドをしてくれるのだが、当然のことながら私は英語のガイドについていくことになった。 英語のグループは、アメリカの老人のツアー客がほとんどで、少し目だった存在になったが気にせずついていく。 前もって、このモスクについての知識をいくらか入れていたので、始めのうちは大部解説も分かったが、途中から知らない単語が結構出てくると、話しがほとんど分からなくなり、勝手にその辺を見て回ることにした。 それにしても、かなりの大きさの建物なのに、その装飾のすべてが手作りの工芸品ということは驚くべきじじつであり、この時ほどカメラを持っていかなかったことを悔やんだ時はなかった。

1時間ほどの拝館時間が終り、ホテルに戻る。 ここで本多君と合流して空港に行くためにカサブランカの駅に行く。 駅に本多君を残して40分ほど駅の回りの店を見て戻ってくると、何とそこには日本人の2人組かいた。 彼らは、2週間でモロッコを回ったらしく、これから同じ飛行機で帰るところだと言う。 さすがに、学生で安くモロッコに来ようとするとアエロフロートを使うのだなと思い知らされる。 空港に到着すると、とりあえずDHを円に両替する。 否、しようとした。 ところが、今円はないといわれて結局USドルで返されてしまった。 その時の対USドルレートがおよそ140円。 今のレートではとても両替することが出来ず、今も150ドルほど手元に残っている。 その後、特にすることもなくチェックインの時間を待つこと2時間。 ようやくチェックインを済ませて免税店を回るが逆にここではモロッコらしいものがほとんどなく、ほとんど何も買わずに搭乗時間を待つことになる。 搭乗時間が近付くと、今までは早く日本に帰りたいと思っていたのに、少し帰るのがもったいないかななどと感傷にふけってしまったが、やはり、今は早く帰りたいという気持ちが強いことを再認識させられる事態が起こるのである。 午後4時。 飛行機はカサブランカの空港を後にし、我々はモロッコを後にした。


9月30日(モスクワ)
カサブランカを飛び立ってから実質8時間。 時差を考えると12時間。 午前4時にモスクワに到着する。 8日前に来た時よりもさらに寒い。 おまけに今回は未だにお腹の調子があまり良くなく、体調は最悪である。 前回同様、空港で次の飛行機を待つ人には食事が出るという。 我々は午後7時の飛行機まで15時間の時間を潰さないといけないので朝食と昼食が出されるという。 しかし、前回モスクワの料理を経験しているのであまり期待はしない。 しかしながら、あまりにも寒いので、朝食はとることにした。 といっても、主な目的は暖かい紅茶であるが。 朝食の後、暇な時間を寝たりブラブラ歩いたりして潰す。 本来なら寝るのが一番いいのだが、寝転べるところがないので熟睡することが出来ない。 さらに寒くて本当に眠いのでなければ眠るのは難しい状況であった。 そうこうしているうちに昼食の時間になるが、とりあえず食べる気がなかったので食べない。 しかし、トランジットオフィスにいってボーダーカードをもらおうとした時に昼食のチケットをくれたので食べることにする。 ところがこれがモスクワ最大の間違いで、おいしくない料理が大量に出てきて、さらに頑張って半分ほど食べてしまったので、かなり気持ち悪くなってしまったのである。 その後、さらに時間を潰して搭乗時間となる。

飛行機に乗ってしばらくすると、第1回目の食事が出される。 この時点で少し気分が悪かったので、半分くらい残す。 ところがこの後が大変で、熱を出してしまい、頭がいたいので寝ることも出来ず、成田までの10時間がとてつもなく長いものになってしまった。


10月1日(日本)
午前10時。 熱と戦いながら何とか成田まで戻ってくる。 飛行機が着陸するとようやく着いたと思ったが、なかなか止まらず結局着陸してから15分ほど空港の中を移動することになる。 さすがアエロフロート。 最後までやってくれる。 死にそうな体を支えながら何とか日本の地に足をつけることができた。 この後、入国審査、税関を簡単に抜け何とか初めての海外旅行が終了した。
10月2日
なんとか熱は下がったが、お腹の調子が最悪である。 仕方がないので医者にいくと、おそらく疲れから来た風邪がお腹にはいったのだろうという。 私もそうであろうと思ったからこそ入国の時に何もいわずに通ったのである。 ここで「精密検査の必要がありますね。」などといわれたらどうしようかと思ったが、とりあえずはひと安心であった。

10月6日
何とか体調も回復し、これでやっと無事に帰ってきたという感じである。

おわり。